【中学歴史】満州事変から日中戦争までのポイント

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満州事変と日中戦争のきっかけなど比較と違いです。それぞれの出来事である満州事変と日中戦争は、いつの何をきっかけにし、その後どうなったのかあいまいにしている人も少なくありません。入試でも頻出のところでなので、きっちり覚えていきましょう。それでは、中学歴史の満州事変と日中戦争のきっかけなど比較と違いです。

満州事変と日中戦争

満州事変と日中戦争

内容 満州事変 日中戦争
年号 1931年 1937年
きっかけ 日本の軍部(関東軍)が柳条湖で満州鉄道の線路を爆破 北京郊外の盧溝橋付近で起こった日中両軍が武力衝突
その後 満州を占領した関東軍が清の最後の皇帝溥儀を元首として建国を宣言 泥沼化する戦争は、南京事件が象徴で、日本軍が一般人含む多数の中国人を殺害

満州事変

1931年9月、満州におかれた関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍のしわざだとして開戦した。政府は戦争を拡大しない方針 だったが、関東軍はこれを無視、満州全域に戦線を広げた。これを満州事変といい、以後15年間にわたって、日中戦争・太平洋戦争と、日本と中国との戦いが続いた。

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リットン調査団

1932年3月、日本は満州の自治を名目にして「満州国」を建国して中国から分離させたうえで、薄儀(清朝最後の皇帝)を元首とした。日本は「満州国」の政治・軍事・経済な どの実権をにぎり、中国人から安く手に入れた土地に、日本国内から農民などを開拓民として集団移住させた。

中国政府が満州事変は日本の侵略だとして国際連盟に 訴えたため、国際連盟は同年2~9月, イギリスのリットン卿を団長とする調査団を現地に派遣した。リットン調査団は10月、「日本の軍事行動は不法であり, 日本の軍事行動 と満州占領は不当である」という報告書を提出した。この報告にもとづいて、国際連盟は総会で決議を行い、賛成12・ 反対1(日本)・棄権1で、日本軍の占領地(満州)からの撤退 と「満州国」承認の取り消しを求める勧告案を採決した。

国際連盟脱退

日本はこれを不服として、1933年3月に国際連盟を脱退した。こうして国際的に孤立した日本は、1933年12月に、ワシントン軍縮条約を破棄して軍備の強化に乗りだし、ファシズム国家のドイツ・イタリアに接近するようになった。

日中戦争

華北で対立していた日中両国の軍隊が、1937年7月、北京郊外の盧溝橋で衝突する事件(盧溝橋事件)がおこった。 現地では停戦協定がほどなく結ばれたのだが、日本政府 (近衛文麿内閣)の方針が定まらなかったこともあり、戦火は上海に広がり、宣戦布告がないままに日中戦争が始まった。

近衛文麿内閣

  • 第一次内閣では、国民精神総動員運動をスローガンとして、1938年に国家総動員法を制定した。
  • 第二次内閣では新体制運動をスローガンとしてかかげ、具体的な政策として、大政翼賛会、大日本産業報国会を結成した。

南京事件

日本軍は戦線をさらに拡大して、同年12月には首都南京を占領した。日本軍はそのさいに、女性や子どもをふくむ多数の中国人を殺害したといわれる(南京事件)。中国側は、1937年9月に、国民政府と中国共産党が抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、奥地の重慶に移して徹底抗戦の態勢をとった。このようななかで、イギリス・フランス・アメリカ合衆国などが中国を支援したため、日中戦争は長期化していった。

中国の対応

  • 抗日民族統一戦線…1937年9月それまで対立していた蒋介石が率いる国民党と毛沢東を指導する中国共産党が協力して日本に対抗するため結成。

日本の対応

  • 国家総動員法…1938年国の産業・経済・国民生活など全てを国が統制する権限を持つとして出された法律。
  • 大政翼賛会…挙国一致のために結成された団体。ほとんどの政党や団体が解散して合流した。

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