中学歴史「尊王攘夷運動|薩摩藩と長州藩」比較

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中学歴史の尊王攘夷運動期の薩摩藩と長州藩の動きの比較と違いです。尊王攘夷運動とは、天皇を尊ぶ尊王論と外国の勢力を排除しようとする攘夷論が結びついた。幕府に対する反対運動です。その頃の、薩摩藩と長州藩の動きの比較と違いをまとめています。それでは、中学歴史の尊王攘夷運動期の薩摩藩と長州藩の動きの比較と違いをみていきましょう。

尊王攘夷運動

政治や経済の面で外国からの圧迫が強まるにつれ、水戸藩(茨城県)などの武士を中心に、外国人を追いはらえという攘夷論と天皇の権威を高めようとする尊王論とが結びついて、尊王攘運動に発展していった。このようななかで、大老の井伊直弼は、朝廷の許しのないまま通商条約を結んだり、14代将軍徳川家茂を独断で決めるなど、独裁的な政治を行った。1858~59年には反対派の大名や公家越前 (福井)藩の橋本左内らの志士を処刑した(安政の大獄)。このため、反感がいっそう高まり、水戸藩の浪士らは1860年、江戸城の桜田門外で井伊直弼を暗殺した(桜田門外の変)。こののち、幕府は朝廷の権威を利用して政権を維持しよ うとして公武合体の政策をおし進め、孝明天皇の妹の和宮を14代将軍徳川家茂の妻にむかえるなどしたが、尊王攘夷運動の高まりをおさえることはできなかった。

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薩摩藩と長州藩

薩摩藩 長州藩
1862年 イギリス人を殺害する事件を起こす
1863年 イギリス艦隊の報復攻撃を受ける 下関(関門)海峡を通る外国船を砲撃
1864年 4国の連合艦隊の報復攻撃を受ける
  • 薩長同盟…1866年薩摩藩と長州藩が土佐藩の出身の坂本龍馬の仲立ちで同盟を結び、倒幕を目指す。

薩摩藩

1862年、生麦村(現在は横浜市)で薩摩(鹿児島県)藩士が、藩主の父島津久光の行列を騎馬で横切ったイギリス人3人を殺傷した(生麦)。そこで、イギリスはこの事件の報復として翌年、艦隊を派遣して鹿児島を砲撃し、市街の一部を焼いた。薩摩藩は大きな打撃を受け、イギリス側に賠償金をしはらった。

長州藩

長州藩は朝廷を動かして、幕府に攘夷の実施を約束させました。長州藩が下関関門海峡で外国船を砲撃。イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の艦隊が連合して攻撃、下関砲台を占領しました。幕府は攘夷を恐れ、急進派の公家や長州藩士を京都から追放。長州藩に出兵します。

倒幕への動き

  • 民主の動き…世直し一揆や打ちこわしが多発。1867年には「ええじゃないか」と踊るさわきが流行。

攘夷に失敗した薩摩藩・長州藩が倒幕運動の中心となった。

比較(中学歴史編)

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