【中学歴史】承久の乱と北条氏の執権政治

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承久の乱と北条氏の執権政治

京都の朝廷では、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に不満をもち、幕府をたおそうと考えていました。源氏の将軍が三代で絶えて幕府の内部が混乱すると、後鳥羽上皇は幕府が弱まったとみて、1221年、執権北条義時(政子の弟)を討つ命令を全国に出します。

しかし、関東の御家人たちは北条政子のよびかけで幕府のもとに結束し、京都に攻めのぼって朝廷方の軍をや破ります。 これを承久の乱という。この結果、幕府は朝廷より優位になり、幕府の力は関東から西日本(西国)にも及ぶようになります

また、このとき朝廷の監視や京都の警護、西国武士の支配に当たらせることを目的として、京都に六波羅探題が設置されます。次の流れが重要です。

  1. 将軍である源が三代で途絶える!
  2. 北条氏の執権政治がスタート!
  3. 後鳥羽上皇の承久の乱!
  4. 京都に六波羅探題が設置される!

御成敗式目

1232年、執権である北条泰時は、武士の法律として御成敗式目(貞永式目)を定めた。これは、武士がつくった最初の法律で、武士のしきたりや源頼朝以来の例にもとづいてつくられ、全部で51か条の武士にわかりやすい簡潔な法律でした。

御成敗式目(一部抜粋)
頼朝公が決められて以来守護の仕事は、大番催促(おおばんさいそく)と、謀反人(むほんにん)と、殺人犯の取りしまりである。さらに、夜討ち(ようち)、強盗、山賊、海賊の取り締(し)まりもある。守護の中には代官を村々に送り勝手に村人を思うがままに使ったり税を集める者もいる。また国司でもないのに地方を支配し、地頭でもないのに税をとったりする者がいる。それらは全て違法の行いであり禁止する。

このように、守護や地頭の仕事、裁判の基準などが51箇条にわたってまとめられています。

北条氏による執権政治

北条時頼(泰時の孫)も、裁判を公平にするための制度などを整え、幕府が御家人に信頼されるよう心をくばります。こうして幕府の政治は安定し、執権をつづける北条氏の力は、ますます強まりました。

以下、摂関政治と執権政治の違いをまとめています。

政治摂関政治執権政治
特徴天皇が幼いときに摂政、成長後は関白として実権執権として実権
時代平安時代鎌倉時代
人物藤原氏(藤原道長・頼道)北条氏
政策1荘園六波羅探題
政策2平等院鳳凰堂御成敗式目
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