中学歴史「江戸時代のポイントまとめ」

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中学歴史江戸時代についてまとめています。

江戸時代の学問

比較 国学 蘭学 儒学
内容 日本の古典研究 西洋の学問 儒教の学問
主な人物 本居宣長 杉田玄白 大塩平八郎
功績 古事記伝 解体新書 陽明学
  • 蘭学…江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。のちに「洋学」と呼ばれるようになる。
  • 陽明学…形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた学問で、より行動を重んじました。
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本居宣長

国学四大人の一人で、古典研究を行い語句・文章の考証を中心とする精密・実証的な研究法により、古事記・源氏物語など古典文学の注釈や漢字音・文法などの国語学的研究にすぐれた業績を残す。

国学

本居宣長は、長年にわたって『古事記』を研究した成果を『古事記伝』としてまとめた。仏教や儒教が伝来する以前の日本人本来の思想を研究する学問として、国学を大成した。国学者の平田篤胤は、賀茂真淵の説をうけて復古神道を唱えたが、この説は豪農層の間にも普及した。

  • 伊能忠敬…全国の沿岸の測量を行い、『大日本沿海輿地全図』の作成にあたった。
  • 平賀源内…物理学の研究を進め、摩擦発電器(エレキテル)の実験を行い、寒暖計や不燃性の布などをつくった。

朱子学

秩序や礼節を重んじた朱子学は、藤原爆落と彼の門人で暮府に登用された林羅山によってひろめられた。

  • 林羅山…1583~1657. 江戸時代初期の朱子学者の中心思想は、「存心持敬(日常の言動をつつしみ、本来の自己に立ち返ること)」と「上下定分の理(士農工商の身分秩序, 幕藩体制の正当化)」である。
  • 知行合一…理一元論による「知行合一」とは、行動を伴わない知識は本物ではないという実践重視の教えで、朱子の「先知後行」を批判する王陽明の根本思想である。

その他の学問

  • 寺子屋…民間教育で、身分の枠をこえて学問が広がっていき、町民や農民の子弟に読み・書き・そろばんを学ばせました。
  • 藩校…藩士の子弟の教育を行いました。
  • 私塾緒方洪庵の開いた適塾、シーボルトの医学塾が有名。

このころ、伊能忠敬は、日本地図の作成に成功します。

参考元禄文化と化政文化の比較

不平等条約

条約 日米和親条約 日米修好通商条約
年号 1854 1858
内容 最恵国待遇 領事裁判権を認め、関税自主権がない
開港 下田・函館 神奈川・長崎・新潟・兵庫を追加
  • 領事裁判権…外国人が、現在住んでいる国の裁判権に服さず、本国の法にもとづいて本国領事の裁判を受ける権利。
  • 関税自主権(かんぜいじしゅけん)…国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利。

日米和親条約

1854年(安政元年)日本とアメリカとの間で結ばれた条約。日本はアメリカに対して燃料や食料を提供する、船や乗務員を保護する、下田・箱館(函館)の2港を開港する、領事の駐在を認めること、日本が他の国と結んだ条約の中で有利な条件は自動的にアメリカにも与える最恵国待遇を認めるという内容。

日米修好通商条約

1858年(安政5年)に日本とアメリカとの間で結ばれた条約。国内の数ヶ所の港を開くことや、外国人の住む地域を定めることが決められました。一方で、外国人の犯罪を日本の法律で裁けない、関税を日本側だけで決められないといった、日本側に不利な項目もありました。大老の井伊直弼は条約を結ぶ際に朝廷の許しを得なかったので朝廷と幕府の対立。

開国

  • 貿易の開始…オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結ぶ貿易を開始。最大の貿易港は横浜。貿易の相手国はイギリスが中心。
  • 開国の影響…物資の不足や金貨が大量に国外流出ことなどから物価が上昇した。自由な貿易の開始は日本の経済に大きな影響を与えた。
桜田門外の変
安政の大獄に反発した水戸藩の浪士たちが井伊直弼を暗殺。幕府は朝廷との融和を図る公武合体政策を進めました。

このころの出来事

  • 1858年 日米修好通商条約締結
  • 1860年 桜田門外の変⇒井伊直弼暗殺
  • 1862年 坂下門外の変⇒安藤信生負傷
  • 1863年 薩英戦争(鹿児島vsイギリス)
  • 1866年 薩長同盟成立⇒坂本竜馬が仲介を行う
  • 1867年 江戸幕府(徳川幕府)、大政奉還へ

尊王攘夷運動

政治や経済の面で外国からの圧迫が強まるにつれ、水戸藩(茨城県)などの武士を中心に、外国人を追いはらえという攘夷論と天皇の権威を高めようとする尊王論とが結びついて、尊王攘運動に発展していった。このようななかで、大老の井伊直弼は、朝廷の許しのないまま通商条約を結んだり、14代将軍徳川家茂を独断で決めるなど、独裁的な政治を行った。1858~59年には反対派の大名や公家越前 (福井)藩の橋本左内らの志士を処刑した(安政の大獄)。このため、反感がいっそう高まり、水戸藩の浪士らは1860年、江戸城の桜田門外で井伊直弼を暗殺した(桜田門外の変)。こののち、幕府は朝廷の権威を利用して政権を維持しよ うとして公武合体の政策をおし進め、孝明天皇の妹の和宮を14代将軍徳川家茂の妻にむかえるなどしたが、尊王攘夷運動の高まりをおさえることはできなかった。

薩摩藩と長州藩

薩摩藩 長州藩
1862年 イギリス人を殺害する事件を起こす
1863年 イギリス艦隊の報復攻撃を受ける 下関(関門)海峡を通る外国船を砲撃
1864年 4国の連合艦隊の報復攻撃を受ける
  • 薩長同盟…1866年薩摩藩と長州藩が土佐藩の出身の坂本龍馬の仲立ちで同盟を結び、倒幕を目指す。

薩摩藩

1862年、生麦村(現在は横浜市)で薩摩(鹿児島県)藩士が、藩主の父島津久光の行列を騎馬で横切ったイギリス人3人を殺傷した(生麦)。そこで、イギリスはこの事件の報復として翌年、艦隊を派遣して鹿児島を砲撃し、市街の一部を焼いた。薩摩藩は大きな打撃を受け、イギリス側に賠償金をしはらった。

長州藩

長州藩は朝廷を動かして、幕府に攘夷の実施を約束させました。長州藩が下関関門海峡で外国船を砲撃。イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4国の艦隊が連合して攻撃、下関砲台を占領しました。幕府は攘夷を恐れ、急進派の公家や長州藩士を京都から追放。長州藩に出兵します。

倒幕への動き

  • 民主の動き…世直し一揆や打ちこわしが多発。1867年には「ええじゃないか」と踊るさわきが流行。

攘夷に失敗した薩摩藩・長州藩が倒幕運動の中心となった。

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