織田信長と豊臣秀吉の政策の比較
織田信長 | 豊臣秀吉 | |
社会・経済政策 | 楽市・楽座 | 太閤検地 |
関所の廃止 | 刀狩令 | |
宗教政策 | 仏教勢力を弾圧 | バテレン追放令 |
キリスト教の保護 | 朝鮮出兵 |
織田信長
安土城を拠点とする。1560年に今川義元を破ってから全国統一事業を進める。1567年に美濃制服をなしとげ畿内地域を統一。天下布武の印判を用いる。本能寺の変で敗死。
- 楽市・楽座…安土城下で、商工業の自由な発展目指し、座の特権を廃止した。
- 関所の廃止…交通の要所に設置されていた施設で徴税や検問のために設置・しかしこの関所は、品物の運送の妨げになっていて、商業の発達がうまくいかない原因となっていたため廃止。
- 仏教勢力の弾圧…当時大きな勢力を持っていた仏教勢力を抑え込んだ。石山戦争で一向一揆を服属させる。比叡山延暦寺焼き討ち。
- キリスト教の保護…仏教勢力を牽制(けんせい)するためでもあり、貿易の振興も目的。
豊臣秀吉
大坂城を拠点とする。1585年に関白となり、翌年1586年に、太政大臣となる。この当時、直轄地を蔵入地といい、また、太閤検地、刀狩、身分統制令、人掃令と次々に施策を実行。
- 太閤検地…田畑の面積や土地の状態を調べて石高で表し、農民から年貢を確かなものにした。
- 刀狩令…農民から刀や鉄砲などの武器を取り上げた。一揆を防ぎ、耕作に専念させることが目的。これにより武士と農民の身分をはっきり区別させ、兵農分離が実現する。
- バテレンン追放令…キリスト教が拡大するのを恐れたため、キリスト教の布教を禁止し、宣教師を国外に追放。
- 朝鮮侵略…明の征服を目指し、朝鮮に1592年と1597年の2度大軍を送った。苦戦の後、秀吉の病死を機に引き上げる。2度の朝鮮侵略は日本国内の武士や農民の負担をかけ、豊臣氏が没落する原因となった。
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