【中学歴史】聖徳太子の政治

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聖徳太子(厩戸皇子)

聖徳太子593年になると聖徳太子(厩戸皇子)が、おばの推古天皇を助ける摂政の地位につき、政治の経験が豊かな蘇我馬子と協力して、新しい政治を進めようとした。太子の政治の理想は、蘇我氏などの豪族を協力させて、天皇を中心にした政治のしくみを整え、日本を天皇中心の国とすることでした。

重要用語「摂政」天皇が幼少や女性、病弱のときに天皇に代わり政治を行う人

やったこと 内容
冠位十二階の制度 家柄にとらわれず才能や功績のある人物を役人に取り立てる。
一七条の憲法 仏教や儒学の教えを取り入れ、役人の心構えを示す。
遣隋使の派遣 小野妹子などを隋に送る。隋の進んだ制度や文化を取り入れるために送られた。

この他にも、四天王寺や法隆寺などの寺院を建立しました。このころから、有力者たちは古墳をつくるのではなく、寺院を建立することがステータスとなっていったようです。

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冠位十二階の制定

家柄にとらわれず、才能や功績のある人を役人にとりたてる制度です。

日本で604年に制定され、605年から648年まで行なわれた冠位です。 日本で初めての冠位・位階であり、この制定により人材登用の道が開かれました。 朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授ける制度です。

一七条の憲法

仏教や儒学の教えを取り入れ、役人の心構えを示したものです。

日本初の成文法で、604年4月3日、聖徳太子はまだ建設途中だった斑鳩宮に自分の臣下を集め、考案していた十七の憲法の原案を提示します。中央集権国家に際しての君・臣・民の上下の筋道を新たに納得できるように教え、導くものでした。

十七条の憲法(一部抜粋)
一に曰く、和をもって貴しとなし、さからうことをなき宗とせよ。
二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。

遣隋使の派遣

聖徳太子は小野妹子などを隋に送ります。これまでの朝貢するという形式ではなく、隋の進んだ制度や文化を取り入れるために送られた。

遣隋使は18年に渡り、5回以上派遣されていますが、歴史上遣隋使といえば、第2回目に小野妹子が遣隋使として派遣されたときのことをいいます。日本書紀には第1回目の記述がなく、第2回目からの記述になっています。

飛鳥文化

聖徳太子が摂政となった6世紀末ごろから、710 年に平城京(奈良市)に都が移されるまで、都はおもに奈良盆地南部の飛鳥地方にあったので、この時代を飛鳥時代といいます。この時代には、聖徳太子をはじめ天皇や豪族(貴族)が仏教を重んじたので、多くの寺院や仏像がつくられました

  • 法隆寺…仏教を深く信仰した聖徳太子は、奈良盆地の北西部の斑鳩の地に法隆寺を建てた。法隆寺には、釈迦三尊像などの仏像や玉虫厨子などすぐれた工芸品が残されている。法隆寺は、飛鳥時代の後半に火災にあい、まもなく建てなおされたもの。それでも、現在残っている世界最古の木造建築といわれ、世界文化遺産に登録されている
  • 四天王寺…聖徳太子は、摂津の難波(大阪市)にも四天王寺を建てた。
  • 飛鳥寺…蘇我馬子も飛鳥地方に 法興寺(飛鳥寺)を建て,そこに飛鳥大仏を安置したといわれている。

唐から帰った留学生

中国では、618年に隋がほろんで唐がおこりました。唐は政治のしくみを整え、領土を広げ、朝鮮の国々を圧迫します。このころ、遣隋使とともに中国にわたった高向玄理・南淵請安・僧の旻らの留学生が日本に帰り、唐のすぐれた制度や文化を朝廷の人々に伝えます。

中大兄皇子と中臣鎌足

朝廷では、皇族の中大兄皇子(なかのおおえのおおうじ)豪族の中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、日本も政治のしくみを整え、天皇中心の強い国にしなければならないと考え、同じような考えの人々を仲間に入れて、まず蘇我氏をほろぼす計画をめぐらします。

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