邪馬台国と大和政権
弥生時代に稲作が始まり、貧富の差が生じ、支配する側と支配される側という立場が形成されます。3世紀になると、邪馬台国という政治連合国家が形成され、やがて大和政権が誕生します。
邪馬台国
紀元前後ごろの日本は倭と呼ばれており、100余りの小国が分立していました。このことは、中国の王朝である漢の歴史書『漢書』地理志に書かれています。中国に朝貢し、九州北部の奴国の王は、漢の皇帝から金印を授かりました。この金印は、福岡県の志賀島で発見されています。金印には、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という称号が書かれています。
3世紀ごろになると、女王である卑弥呼が30か国ほどを従え、地域的統一国家である邪馬台国が成立しました。中国の魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを授かりました。このことは、中国の歴史書『魏志』倭人伝に書かれています。
大和政権(大和朝廷)
現在の大阪府・奈良県あたりの豪族が連合してつくった政権を大和政権といいます。大和政権の政府は大和朝廷と呼ばれ、大王(おおきみ・だいおう)がそのトップに君臨していました。5世紀ごろになると、九州から東北地方南部まで支配下に置いていたことが、出土品から推測されています。
大和政権は、氏姓制度という仕組みで運営されており、大王が豪族の一族である氏(うじ)に姓(かばね)という役職を与え、朝廷の決まった仕事をやらせるシステムでした。
大和政権の時代には、全国に大規模な古墳がつくられるようになります。古墳は権力の大きさを示すものと考えられ、大和地方には、4世紀の大きな古墳が多いので、富と力をたくわえた多くの豪族が、それぞれ小さなくにを治めていたことがわかります。多くの古墳にまじって、大きな前方後円墳がみられるので、いちばん力のある豪族をかしらにして大和の豪族たちが連合し。より大きな1つの国をつくったと考えられています。

大阪府:大仙古墳
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