中学歴史テストや高校入試出る「建築・建造物(寺・像など)」のまとめです。時代と人、建築名とその特徴までおさえておくと完璧です。また建物・建造物については、地図上で位置と合わせて確認しておきましょう。それでは、中学歴史テストや高校入試出る「建築・建造物(寺・像など)」のまとめをみていきましょう。
文化の建築・建造物・像
- 唐招堤寺
- 法隆寺
- 正倉院
- 平等院鳳凰堂
- 金剛力士像
- 富岡製糸場
唐招堤寺
753年に来日した唐の僧である鑑真は、日本の仏教のしくみを整え、鑑真が建てた寺。古都奈良の文化財として世界文化遺産に指定されている。
朝鮮半島の情報を収集するとともに、唐の進んだ政治制度や文化などをまなぶために、遣唐使を派遣。唐の高僧である鑑真は、遣唐使の招きに応じて日本に渡ろうとしましたが、5回も失敗して盲目となりました。6度目の挑戦で、来日して仏教の戒律を伝えて、唐招提寺を開きました。
法隆寺
聖徳太子は、592年に推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、皇太子となりました。聖徳太子(廐戸皇子)は推古天皇の摂政となり政治を行う。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし、遣隋使派遣、冠位十二階や十七条憲法を制定した。また、聖徳太子は、四天王寺・法隆寺などを建立した。
正倉院
正倉院は、聖武天皇のゆかりの品をはじめとする、天平文化を中心とした多数の美術工芸品を収蔵。聖武天皇は、即位した720~740年は、凶作が続き、疫病が流行するなど、社会不安が広がっていました。
そこで、聖武天皇は、仏教の鎮護国家の思想で国の平安を保とうと国ごとに国分寺と国分尼寺、都に東大寺を建てました。また、僧の行基は布教のかたわら、諸国をまわって橋や用水路などをつくり、政府の要請で大仏の造立にも積極的に協力しました。
平等院鳳凰堂
藤原頼道が宇治に極楽浄土を再現しようとして建てた阿弥陀堂。
末法思想とは、釈迦入滅後、「正法」、「像法」の二千年を経過したつぎの一万年の「末法」の時代には、教えだけが残り、修行しても悟りを得ることはできないという歴史観(思想)である。日本では、平安時代末期(1052年)から末法に入ったと考えられ、この年、藤原頼道(関白)は宇治平等院に阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した
金剛力士像
東大寺南大門にある運慶・快慶作の彫刻。東大寺の仏像の制作では、奈良仏師が活躍し、東大寺南大門には、運慶と快慶らの共同作業によって作られた金剛力士像が安置されている。
2体の金剛力士像が安置されている東大寺南大門は、簡単な組立てで大きな建物を造りうる大仏様(天様)の建築様式で知られる。
富岡製糸場
群馬県の富岡製糸場。政府が設置して経営した工場である官営模範工場。
殖産興業は、近代的な産業を育てる政策。鉄道の開通や蒸気船の運行などの交通の整備。郵便制度や電子網の整備・富岡製糸場などの官営模範工場の建設。万国博覧会の参加(ジャポニズム)。
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