開国と江戸幕府の滅亡
19世紀になると、通商を求めて日本に接近する欧米諸国の船が増加します。これに対して、幕府は1825年、異国船打払令を出します。これを批判した蘭学者の渡辺崋山や高野長英は、幕府によって処刑されます。これが蛮社の獄です。
このころ、イギリスでは産業革命を達成します。市場を求めてアジアに進出し、中国の王朝である清やインドと貿易を行います。イギリスは清との貿易の赤字を解消するために、インドを含め三角貿易を行います。
当時のイギリスは、茶が大流行しており、茶や絹を買うために、銀が清に大量に流出します。この銀を回収すために、イギリスの植民地であったインドにアヘンを作らせ清に売りつけ、対価としてインドが得た銀を、イギリスの工業製品や綿織物を売りつけることで回収するという仕組みです。
清はアヘンの取り締まりを強化したところイギリスとの間でアヘン戦争(1840~42年)が勃発します。アヘンを厳しく取り締まった清をイギリスが攻撃し、勝利します。清は南京条約を結ばされ不平等条約締結することになります。天保の改革を行っていた水野忠邦は、これをうけて異国船打払令を取り消し、薪水給与令を出します。
日本の開国
1853年にアメリカのペリーが浦賀(神奈川県)に来航し、開国を要求します。翌年再び来航したペリーと、幕府は日米和親条約を結びます。これにより、下田(静岡県)と函館(北海道)の2港を開き、アメリカ船に食料・水・石炭などを供給するようになります。
1858年には、大老の井伊直弼が日米修好通商条約を結び、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、新潟、長崎の4港を新たに開きます。
この日米修好通商条約は不平等条約で、日本にとって非常に不利な内容となっています。
- 領事裁判権を認める…外国人が、日本の裁判権に服さず、本国の法にもとづいて本国領事の裁判を受ける権利。
- 関税樹種権がない…国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利がない。
この後、アメリカに続き、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと不平等条約を結びます。最大の貿易港は横浜で、最大の貿易相手国はイギリスになります。アメリカは南北戦争が勃発したため、日本との貿易はふるいませんでした。
この当時の貿易の状況は、輸出品として生糸がほとんどを占めています。また、金と銀の交換比率が異なったため、金が大量に海外に流出してしまいます。生糸などの原料が輸出されてしまったため、国内の物価は高騰し、日本の経済に大きな打撃を与えました。
尊王攘夷運動
外国と不平等条約を結んだ幕府を反対した人々を井伊直弼は処罰します。これが安政の大獄です。これに対し、反対派の武士が井伊直弼を暗殺した事件が桜田門外の変です。
これ以降、天皇を尊ぶ尊王論と外国の勢力を排除しようとする攘夷論が結び付き、幕府に反対する運動が広まります。尊王攘夷運動です。
- 生麦事件(薩摩藩)…薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人を刀で殺傷する事件
→これに対し、1863年薩摩藩はイギリスの報復を受ける(薩英戦争) - 四国艦隊下関砲撃事件(長州藩)…下関の関門海峡を運航する外国船を砲撃
→1864年、アメリカ・オランダ・イギリス・フランスが長州藩に報復
藩 | 薩摩藩 | 長州藩 |
---|---|---|
1862年 | イギリス人を殺害する事件を起こす | |
1863年 | イギリス艦隊の報復攻撃を受ける | 下関(関門)海峡を通る外国船を砲撃 |
1864年 | 4国の連合艦隊の報復攻撃を受ける |
この両事件で、薩摩藩と長州藩は、外国との実力差を痛感します。譲位が現実的ではないことに気づきます。1866年には、土佐藩の坂本龍馬らの仲介で薩長同盟が成立します。国内では「世直し」を期待し、一揆や打ちこわしが多発し、1867年には「ええじゃないか」と踊る騒ぎが流行します。
江戸幕府の滅亡
1867年、15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返します。大政奉還です。同年に、朝廷が天皇を中心とする政治に戻すことを王政復古の大号令によって宣言します。
1868年からは、戊辰戦争が勃発し、旧幕府軍と新政府軍との戦いが始まり、翌年、旧幕府軍が降伏します。これで、700年近く続いた武士の政治が終わりを迎えるのです。
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