【中学地理】鎌倉時代のまとめ

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【中学地理】鎌倉時代についてまとめています。
確認中学歴史「鎌倉時代の一問一答用語チェック」

鎌倉時代

鎌倉にいた源頼朝は、おもに関東(東国)の武士を家来とし,武士の政府をつくった。頼朝の家来 となった武士を御家人という。源頼朝は、御家人を統学する侍所、政務や財政をあつかう政所。裁判をする問注所などの役所をつくり、おもな御家人や京都から招いた貴族に役所の仕事をさせた。
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守護・地頭

平氏がほろぶと、源頼朝は各地に守護と地頭をおくことを朝廷に認めさせた。守護は国ごとにおかれ、軍事・警察の仕事や、その国の御家人 を統率する役目をもった。地頭は、貴族や寺社の荘 園や国司が治める土地(公領)で、年貢の取り立てや警察の仕事をおこなった。源頼朝は御家人を守護や地頭に任命して、支配力を全国におよぼそうとした。

鎌倉幕府の成立

比較 鎌倉幕府
補佐 執権
統率 侍所
財政 政所
裁判 問注所
警察 守護
土地管理 地頭
地方警備 六波羅探題(京都)

1192年、源頼朝は、朝廷から、武士のかしらとして征夷大将軍(将軍)に任命された。源頼朝 のつくった武士の政府を鎌倉幕府とよび、鎌倉幕府がつづいた約140年間を鎌倉時代という。土地(領地)を仲立ちにした主従関係が中心のしくみを封建制度という。鎌倉幕府はこの封建制度のしくみでおこなわれた。律令による朝廷のしくみとちがい、源頼朝(将軍)が御家人を統率するため、実際にあわせた簡単なものであった。源頼朝と御家人とは、御恩と奉公との主従関係によって結ばれた。
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承久の乱

京都の朝廷では、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に不満をもち,幕府をたおそうと考えた。源氏の将軍が絶えて幕府の内部が混乱すると、後鳥羽上皇 は幕府が弱まったとみて、1221年、執権北条義時(政子の弟)を討つ命令を全国に出した。しかし、関東の御家人たちは北条政子のよびかけで幕府のもとに結束し、京都に攻めのぼって朝廷方の軍をやぶった。 これを承久の乱という。この結果、幕府は朝廷より優位になり、幕府の力は関東から西日本(西国)にもおよんだ。

御成敗式目

1232年、執権北条泰時は、武士の法律として御成敗式目(貞永式目)を定めた。これは、武士がつくった最初の法律で、武士のしきたりや源頼朝以来の例にもとづいてつくられ、全部で51か条の武士にわかりやすい簡潔な法律だった。

執権

北条時頼(泰時の孫)も、裁判を公平にするための制度などを整え、幕府が御家人に信頼されるよう心をくばった。こうして幕府の政治は安定し、執権をつづける北条氏の力は、ますます強まった。

鎌倉時代のくらし

牛馬と肥料

鎌倉時代の武士は、ふだんは農村に住み、領地の農業に力をそそいだ。また、農民も収穫をふやすくふうをした。鉄製のすき・くわがゆきわたり、牛や馬にすきを引かせて深く耕すことができるようになった。草・木の灰(草木灰)や草を地中 にうめたもの (刈敷)を肥料にすることもおこなわれるようになった。

二毛作

深く耕したり肥料を使ったりすると土地が肥えるので、耕地を休ませる必要がなくなる。そのため、近畿・中国地方など西日本の各地では、 稲をかり取ったあとに裏作として麦をつくる二毛作がひろまった。水田の裏作の麦には、税がかからなかった。

鎌倉文化

優れた朝廷の文化で貴族は朝廷の文化を見直します。親しみがあり、力強い感じをあたえる文化。

  • 新古今和歌集…後鳥羽上皇の命により、藤原定家らが編集した和歌集
  • 金剛力士像…東大寺南大門にある運慶・快慶作の彫刻
  • 平等院鳳凰堂…京都の氏に藤原頼道が建立しました。阿弥陀如来の像やそれをおさめる阿弥陀堂がつくられました。
  • 末法思想…平安時代の末から、保元の乱・平治の乱・源平の乱など戦乱があいつぎ、それに加えて、ききん(作物が実らず、飢えに苦しむこと)や災害なでも起こり末法思想が広がりました。
比較 浄土宗 浄土真宗 時宗 日蓮宗 臨済宗 曹洞宗
開祖 法然 親鸞 一遍 日蓮 栄西 道元
寺院 知恩院 本願寺 清浄光寺 久遠寺
教え ひらすら念仏 念仏 踊念仏 題目を唱える 座禅 座禅

確認【中学歴史】鎌倉新仏教の比較|出題ポイント

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