武士の台頭、院政の時代を経ていよいよ武士が政治の最前線に立ちます。初めての武家政権である鎌倉幕府や、鎌倉時代の人々の生活について学習します。
鎌倉時代のポイント
平安時代の末期には、平氏が武士として政権を奪いましたが、貴族と同じような政治を行ったため、貴族や武士たちの不満がつのり、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れます。
この後の、鎌倉幕府が関東に開かれてからの時代を鎌倉時代といいます。将軍を頂点とする武家政権と、当時の人々の暮らしを理解することがポイントです。最低限次の内容は押さえておきましょう。
❶鎌倉幕府の統治機構!No.2は執権!京都には六波羅探題!
❷鎌倉幕府と御家人のつながり!封建制度を支えた御恩と奉公!
❸承久の乱と北条氏の執権政治!後鳥羽上皇VS北条政子
❹武士の法律!北条泰時の御成敗式目
❺元寇と鎌倉幕府の滅亡!元寇、徳政令からの幕府の衰退!
❻鎌倉時代の人々の暮らし!農業・商業・運送業の発展!
❼鎌倉時代の文化!鎌倉仏教が庶民に広まる!
鎌倉幕府のしくみ
鎌倉にいた源頼朝は、おもに関東(東国)の武士を家来とし、武士の政府をつくります。頼朝の家来となった武士を御家人といい、源頼朝は、御家人を統率する侍所、政務や財政をあつかう政所。裁判をする問注所などの役所をつくり、おもな御家人や京都から招いた貴族に役所の仕事をさせます。
守護・地頭
平氏がほろぶと、源頼朝は対立する源義経をとらえることを口実に、各地に守護と地頭をおくことを朝廷に認めさせます。
- 守護(しゅご)
国ごとにおかれ、軍事・警察の仕事や、その国の御家人 を統率する役目をもった。 - 地頭(じとう)
貴族や寺社の荘園や国司が治める土地である公領におかれ、土地の管理や年貢の取り立て、警察の仕事をおこなった。
源頼朝は御家人を守護や地頭に任命して、支配力を全国におよぼそうとしました。そして1192年に、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉(神奈川県)に鎌倉幕府を開きます。
これ以後約140年間を鎌倉時代といいます。
封建制度と御恩と奉公
土地(領地)を仲立ちにした主従関係が中心のしくみを封建制度(ほうけんせいど)といいます。鎌倉幕府はこの封建制度のしくみでおこなわれます。律令による朝廷のしくみとちがい、源頼朝(将軍)が御家人を統率するため、実際にあわせた簡単なものでした。
将軍と主従関係を結んだ武士のことを御家人といい。源頼朝と御家人とは、御恩と奉公との主従関係によって結ばれました。
- 御恩(ごおん)…将軍は御家人の領地を認め、功績があると新しい土地をあたえた。
- 奉公(ほうこう)…御家人は将軍に忠誠を誓い、戦いのときは家臣を率いて出陣した。
承久の乱と北条氏の執権政治
京都の朝廷では、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に不満をもち、幕府をたおそうと考えていました。源氏の将軍が三代で絶えて幕府の内部が混乱すると、後鳥羽上皇は幕府が弱まったとみて、1221年、執権北条義時(政子の弟)を討つ命令を全国に出します。
しかし、関東の御家人たちは北条政子のよびかけで幕府のもとに結束し、京都に攻めのぼって朝廷方の軍をや破ります。 これを承久の乱という。この結果、幕府は朝廷より優位になり、幕府の力は関東から西日本(西国)にも及ぶようになります。
また、このとき朝廷の監視や京都の警護、西国武士の支配に当たらせることを目的として、京都に六波羅探題が設置されます。次の流れが重要です。
- 将軍である源が三代で途絶える!
- 北条氏の執権政治がスタート!
- 後鳥羽上皇の承久の乱!
- 京都に六波羅探題が設置される!
御成敗式目
1232年、執権である北条泰時は、武士の法律として御成敗式目(貞永式目)を定めた。これは、武士がつくった最初の法律で、武士のしきたりや源頼朝以来の例にもとづいてつくられ、全部で51か条の武士にわかりやすい簡潔な法律でした。
頼朝公が決められて以来守護の仕事は、大番催促(おおばんさいそく)と、謀反人(むほんにん)と、殺人犯の取りしまりである。さらに、夜討ち(ようち)、強盗、山賊、海賊の取り締(し)まりもある。守護の中には代官を村々に送り勝手に村人を思うがままに使ったり税を集める者もいる。また国司でもないのに地方を支配し、地頭でもないのに税をとったりする者がいる。それらは全て違法の行いであり禁止する。
このように、守護や地頭の仕事、裁判の基準などが51箇条にわたってまとめられています。
北条氏による執権政治
北条時頼(泰時の孫)も、裁判を公平にするための制度などを整え、幕府が御家人に信頼されるよう心をくばります。こうして幕府の政治は安定し、執権をつづける北条氏の力は、ますます強まりました。
以下、摂関政治と執権政治の違いをまとめています。
政治 | 摂関政治 | 執権政治 |
---|---|---|
特徴 | 天皇が幼いときに摂政、成長後は関白として実権 | 執権として実権 |
時代 | 平安時代 | 鎌倉時代 |
人物 | 藤原氏(藤原道長・頼道) | 北条氏 |
政策1 | 荘園 | 六波羅探題 |
政策2 | 平等院鳳凰堂 | 御成敗式目 |
元寇と鎌倉幕府の衰退
鎌倉時代、中国では1206年、チンギス=ハンがモンゴル民族を統一してモンゴル帝国を建国します。チンギス=ハンの孫であるフビライ=ハンは、都を大都(現在の北京)に移し、1271年に国号を元と改めます。
1279年には、宋を滅ぼし中国全土を統一し、さらに朝鮮半島の高麗も征服します。最盛期には世界の4分の1を征服しました。この当時、イタリアの商人でフビライ=ハンに仕えていたのがマルコ=ポーロです。東方見聞録を著し、当時の日本を『黄金の国ジパング』と紹介しました。
2度にわたる元寇が日本を襲う
もちろん、そんな大帝国である元が日本を見逃すはずがありません。元軍は2度にわたって北九州に上陸します。
- 文永の役…1274年
- 弘安の役…1281年
この2つの元軍の襲来を元寇といいます。当時の執権であった北条時宗を筆頭に、日本の武士たちは勇敢に戦いましたが、元軍の集団戦法や火薬に苦しめられます。しかし、元軍は暴風雨などで大打撃を受けて退却します。
この元寇の結果、幕府の財政は苦しくなり、御家人に十分な恩賞をあたえられず御家人の不満は一気に高まります。つまり、元寇は防ぐことができたけれども、幕府の支配力は完全に衰えます。
徳政令でさらに混乱が生じる
1297年に、幕府は御家人の生活苦を救うために徳政令(永仁の徳政令)を出します。2度の元寇より、多くの御家人は土地を売って戦費に費やしていました。この土地を無料で取り返させる処置をしたのです。
この結果、かえって経済が混乱し、幕府の衰退を加速させます。
鎌倉幕府の滅亡
1333年には、足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め幕府は滅亡します。御恩と奉公の主従関係は完全に崩れ、幕府に従わない武士や有力な農民を悪党と呼んでいたことも覚えておきましょう。
鎌倉時代の文化と新しい仏教
鎌倉時代に栄えた文化を鎌倉文化といいます。素朴で力強い武家文化で、中国の宋の影響を受けて発達します。また、貴族は朝廷の文化を見直します。親しみがあり、力強い感じをあたえる文化が鎌倉文化です。次の内容を押さえておきましょう。
- 新古今和歌集…後鳥羽上皇の命により、藤原定家らが編集した和歌集
- 平家物語…琵琶法師によって語り伝えられた平家一門の盛衰をえがいた物語
- 方丈記…鴨長明が書いた随筆
- 徒然草…吉田兼好(兼好法師)が書いた随筆
- 金剛力士像…東大寺南大門にある運慶・快慶作の彫刻
鎌倉新仏教が民衆に広まる
平安時代の末から、保元の乱・平治の乱・源平の乱など戦乱があいつぎ、それに加えて、ききん(作物が実らず、飢えに苦しむこと)や災害なでも起こり末法思想が広がりました。社会不安が増大し、人々は心のよりどころを求めるようになったことが新しい仏教が広まる背景だったのです。
鎌倉時代に登場する新しい仏教の特徴は、わかりやすく、信仰しやすい教えであったことです。民衆や武士の間に爆発的に広まりを見せます。次の仏教の宗派と開祖、簡単な教えを覚えましょう。
宗派 | 念仏宗 | 日蓮宗 | 禅宗 | |||
浄土宗 | 浄土真宗 | 時宗 | 臨済宗 | 曹洞宗 | ||
開祖 | 法然 | 親鸞 | 一遍 | 日蓮 | 栄西 | 道元 |
教え | ひたすら念仏 | 念仏 | 踊念仏 | 題目を唱える | 座禅 | 座禅 |
寺院 | 知恩院 | 本願寺 | 清浄光寺 | 久遠寺 | 建仁寺 | 永平寺 |
浄土真宗は一向宗、日蓮宗は法華宗とも呼ばれます。また、座禅によって悟りを開く臨済宗や曹洞宗をまとめて禅宗といいます。
鎌倉時代の人々の暮らし
まず、武士の暮らしですが、「弓馬の家」と呼ばれたように、屋敷内に馬を飼い、日々武芸の鍛錬に励みます。屋敷の周辺には田畑を所有し、戦がないときは自ら農業も行いました。有力な武士の中には、地頭として荘園を管理し、そこから一定の収入を得るものを現れます。また、武士は一族の団結が強く、その中心者を惣領(そうりょう)といいます。
次に農民ですが、この時期の農民には非常に重い税が課されます。荘園領主と地頭の両方から年貢や労役を課せられ、二重の負担に苦しみました。しかし、その一方で農業技術が進歩し、生産力が向上します。
鎌倉時代の農業の発達
農民は収穫を増やす工夫をします。鉄製のすき・くわが行きわたり、牛や馬にすきを引かせて深く耕すことができるようになった(牛馬耕)。草・木の灰(草木灰)や草を地中にうめたもの (刈敷)を肥料にすることもおこなわれるようになります。
深く耕したり肥料を使ったりすると土地が肥えるので、耕地を休ませる必要がなくなります。そのため、近畿・中国地方など西日本の各地では、 稲をかり取ったあとに裏作として麦をつくる二毛作が広まりました。水田の裏作の麦には、税がかかりませんでした。
また、桑や漆(うるし)、茶など、商品として売る商品作物の栽培も始まります。
鎌倉時代の商業の発達
鎌倉時代になると定期市が、交通の要衝や寺社の前で行われるようになります。ここでは日宋貿易で輸入された宋銭が使われます。また、年貢の輸送にあたる問(問丸)や馬借の活動も盛んになります。
商工業者は、座と呼ばれる同業者組合をつくって営業を独占するようにもなります。
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