中学歴史。弥生時代のまとめとポイントを解説します。稲作が始まってからの時代が弥生時代です。弥生時代の人々がどのような生活を送っていたのか、縄文時代と比べながら見ていきましょう。
弥生時代
2300年以上前の縄文時代の終わりまでには、中国や朝鮮半島から米作り(稲作)の技術が伝わりました。人々は米作りなどの農業をして、食料を自分たちでつくるようになります。米作りは、中国や朝鮮半島に近い北九州で始まり、やがて東北地方にまでひろまります。
登呂遺跡で水田の跡が発見される
静岡市の登呂遺跡には、紀元200年ごろの村と水田のあとが残っています。竪穴住居の跡があり、村には60人ほどが住んでいたと考えられています。水田は約50区画が発掘され、あぜ道や水路は矢板という板で仕切られており、水田を耕すためのすき・くわ、湿地の中を歩くための田げたなどの木の農具も発見されています。
水田に種もみをじかにまき、稲が実ると石包丁で稲の穂をつみとりました。2つの高床倉庫のあとがあり、つみとった稲の穂をたくわえた倉庫と考えられています。
弥生土器の特徴
縄文土器より高温で焼き、硬くてうすく、赤みがかった色の土器が、明治時代に現在の東京都文京区弥生二丁目付近から出てきたので、弥生土器と名づけられました。米作りが本格化し、弥生土器を使った紀元前400年ごろから紀元300年ごろまでの約700年間を、弥生時代といいます。
縄文土器と弥生土器の違いを比較しておきましょう。
縄文土器 | 弥生土器 | |
焼き上げた温度 | 低温 | 高温 |
模様 | 表面に縄目模様 | 文様が少ない |
用途 | 煮炊き・貯蔵 | 煮炊き・貯蔵・盛り付け |
厚さ | 厚い | 薄い |
色 | 黒褐色 | 赤褐色 |
それぞれの時代背景、生活様式も一緒におさえておくと完璧です。また、資料集などで写真も合わせて確認することも大切です。
青銅器と鉄器が日本に伝わる
米作りの技術とともに、中国や朝鮮半島から青銅や鉄の道具が伝わり、日本でもつくられるようになります。青銅器はおもに祭りの道具として使われましたが、鉄器は、おの・のみ・ナイフなどの木工具、くわ先・すき先・かまなどの農具、剣・刀などの武器として、実用にあてられました。青銅器や鉄器は、まだ貴重だったので、石器や木の道具もあわせて使われています。
青銅器についてもう少し詳しく説明します。日本の遺跡から大量に出土している青銅器が4種類あります。
- 銅鐸…鐘の形をした青銅器
- 銅矛…矛の形をした青銅器
- 銅剣…剣の形をした青銅器
- 銅鏡…円盤の青銅器
社会の変化で貧富の差が生じる
- 米作りでくらしが安定し、むらの人口がふえた。
- 農作業ではむらの人々が協力しなければならないので、むらの人々を指導するかしらがあらわれた。
- 豊作をいのる祭りがたいせつな行事になり、むらのかしらを中心にしておこなわれた。
むらのかしらは、米などの富をたくわえ、むらの中心として高い身分につき、人々の間に - 身分のちがいや貧富の差ができてきた。
弥生時代の遺跡で覚えておくもの
弥生時代の遺跡で覚えておきたいものをまとめています。特に赤字の遺跡は超重要です。
- 登呂遺跡(静岡県)…集落と大規模な水田跡
- 吉野ヶ里遺跡(佐賀県)…最大級の環濠集落
- 菜畑遺跡(佐賀県)…最古の水田跡
- 板付遺跡(福岡県)…縄文時代晩期の水田跡
- 荒神谷遺跡(島根県)…青銅器(銅牙と銅鐸)
- 加茂岩倉遺跡(島根県)…大量の青銅器(銅鐸)
- 唐子・鍵遺跡(奈良県)…大量の木製農具が出土
- 弥生町遺跡(東京都)…弥生土器が出土
- 砂沢遺跡(青森県)…東日本最古の水田跡
- 垂柳遺跡(青森県)…水田跡や弥生人の足跡が出土
旧石器時代・縄文時代・弥生時代の比較
ここで、旧石器時代と縄文時代、弥生時代を比較しておきましょう。
旧石器時代 | 縄文時代 | 弥生時代 | |
生活 | 狩猟・採集 | 狩猟・採集 | 稲作 |
石器 | 打製石器 | 磨製石器 | 磨製石器 |
土器 | なし | 縄文土器 | 弥生土器 |
住居 | 洞穴・テント | 竪穴住居 | 竪穴住居 |
金属器 | なし | なし | 青銅器・鉄器 |
貧富の差 | なし | なし | あり |
遺跡 | 野尻湖 岩宿遺跡 |
三内丸山遺跡 大森貝塚 |
登呂遺跡 吉野ヶ里遺跡 |
邪馬台国と大和政権
弥生時代に稲作が始まり、貧富の差が生じ、支配する側と支配される側という立場が形成されます。3世紀になると、邪馬台国という政治連合国家が形成され、やがて大和政権が誕生します。
邪馬台国
紀元前後ごろの日本は倭と呼ばれており、100余りの小国が分立していました。このことは、中国の王朝である漢の歴史書『漢書』地理志に書かれています。中国に朝貢し、九州北部の奴国の王は、漢の皇帝から金印を授かりました。この金印は、福岡県の志賀島で発見されています。金印には、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という称号が書かれています。
3世紀ごろになると、女王である卑弥呼が30か国ほどを従え、地域的統一国家である邪馬台国が成立しました。中国の魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを授かりました。このことは、中国の歴史書『魏志』倭人伝に書かれています。
大和政権(大和朝廷)
現在の大阪府・奈良県あたりの豪族が連合してつくった政権を大和政権といいます。大和政権の政府は大和朝廷と呼ばれ、大王(おおきみ・だいおう)がそのトップに君臨していました。5世紀ごろになると、九州から東北地方南部まで支配下に置いていたことが、出土品から推測されています。
大和政権は、氏姓制度という仕組みで運営されており、大王が豪族の一族である氏(うじ)に姓(かばね)という役職を与え、朝廷の決まった仕事をやらせるシステムでした。
大和政権の時代には、全国に大規模な古墳がつくられるようになります。古墳は権力の大きさを示すものと考えられ、大和地方には、4世紀の大きな古墳が多いので、富と力をたくわえた多くの豪族が、それぞれ小さなくにを治めていたことがわかります。多くの古墳にまじって、大きな前方後円墳がみられるので、いちばん力のある豪族をかしらにして大和の豪族たちが連合し。より大きな1つの国をつくったと考えられています。
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