中学歴史。市民革命、産業革命を経た欧米諸国は、目覚ましい発展を遂げ、新たな市場を求めてアジア侵略を行います。当時の欧米諸国の発展の背景、アジア各国での反乱など詳しく学習します。
欧米諸国の発展
欧米諸国は市民革命・産業革命を経て大きく発展します。産業革命によって技術革新が起き、兵器も発達し、アジアとの貿易の仕方が変わります。武力でアジアの市場を開放したり、不平等な貿易を行うようになります。
まずは、市民革命の後のフランス・ドイツ・アメリカについて、それぞれどのような歴史があったのか詳しく見ていきましょう。
フランスでは普通選挙が行われるようになった
フランスは、フランス革命後、ナポレオンが皇帝となりヨーロッパの大部分を支配しましたが、ロシアへの遠征が失敗に終わり没落します。その後、再び王政が復活していましたが、1830年に七月革命・1848年に二月革命を経て共和制になります。
この2つの革命後に、フランスでは成人男子の普通選挙制が実施されるようになります。フランスの民主化の波は、ヨーロッパ全土に影響を与え、多くの国が独立を果たしていきます。
アメリカでは南北戦争勃発
独立戦争によってイギリスから独立したアメリカは、急速な経済成長をとげます。特に北部では製造業が発展し、南部との経済格差が大きく広がりました。南部は奴隷を労働力にした大規模な農業を続けていたので、奴隷が必要な南部と、奴隷が必要ではない北部との間で戦争が起こります。これが1861年に始まった南北戦争です。

リンカーン
1863年にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を出して、北部を勝利に導きます。ゲティスバーグの演説「人民の、人民による、人民のための政治」は有名ですね。
ドイツは鉄血政策で軍事力強化
フランスが市民革命を経て国力が発展する中、周辺国であったドイツ地方は、フランスなどへ対抗する必要が生じます。ドイツはそれまで小国に分かれていましたが、1871年にプロイセンを中心にドイツは統一されドイツ帝国が誕生します。
ドイツ帝国の宰相はビスマルクという人物で、フランスなどの強国に対抗するために鉄血政策(てっけつせいさく)という軍事力を強める政策を行います。「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」という有名な演説があります。
欧米諸国のアジア進出
経済力・軍事力が強まった欧米諸国はアジアとの貿易の仕方を変化させ、武力を使った侵略を開始します。当時最も多くの植民地を獲得していたイギリスのアジア侵略を見ていきます。
清とのアヘン戦争、イギリスの植民地インドでおこった大反乱などの背景が重要になります。
アヘン戦争「イギリスvs清」
- 三角貿易(イギリス・清・インド)
↓ - アヘン戦争(イギリスの勝利)
↓ - 南京条約(不平等条約)
↓ - 太平天国の乱
↓ - 清は列強に国土の一部を取られる
イギリスは、産業革命によって作られた工業製品を売るために、アジア諸国に市場の開放を要求します。その中で、イギリスの清に対する貿易は大幅な赤字を出していました。当時、イギリスで流行していた茶や絹の輸入で、清に大量の銀が流出していたからです。
貿易赤字削減対策として、イギリスは三角貿易を行います。
イギリスの工業製品をインドに輸出し、インドのアヘンを清に輸出、清の茶・絹をイギリスに輸出するといった、三ヵ国間での貿易になります。これによって、清に流出した銀を回収することができたわけです。
1840年、これに反発した清がイギリスと起こした戦争がアヘン戦争です。清がアヘンの密輸入を禁止し、アヘンを没収したことがきっかけになります。戦争の結果、近代的な兵力持つイギリスが勝利します。
アヘン戦争の講和条約が南京条約です。清はイギリスに香港をゆずり、多額の賠償金を支払います。また翌年、南京条約の追加として、清は領事裁判権を認め、関税自主権のない条約を結ばされます。いわゆる不平等条約になります。
清で太平天国の乱が起こる
アヘン戦争後、中国の農民の生活はますます苦しくなります。そこで洪秀全(こうしゅうぜん)が農民を率いて兵をあげ、太平天国というという国をつくります。土地が平等に分けられた、貧富の差がない国を理想として掲げます。しかし、列強の力を借りた清によって鎮圧され、清は列強によって国土をむしり取られる形になってしまいました。
インドの大反乱
イギリスの植民地になっていたインドでは、19世紀にイギリスの綿布製品が大量に流入し、インド国内の綿布工業が大打撃を受けます。この結果、インド国内にイギリスの支配に対する反感が広まります。
1857年、東インド会社に雇われていたインド人兵士(セポイ)がイギリス人の上官に対して反乱を起こすと、反英感情を持つ多くの人々がこれに加わり大反乱となります。これがインドの大反乱です。
イギリスは反乱を鎮圧するとともに、ムガル帝国を滅ぼし、東インド会社を解散してインドを直接支配するようになります。
このように、欧米諸国によってアジア侵略がエスカレートしていきます。その波は確実に鎖国下の日本にも近づいていきました。
【確認問題】欧米諸国のアジア進出
- 1871年にドイツ帝国の宰相ビスマルクによって進められた政策を何というか。
- アメリカで1861年におこった戦争を何というか。
- アメリカで1861年におこった戦争で、北部を勝利に導いた指導者は誰か。
- この戦争で対立の焦点となっていた制度は何か。
- この戦争中、ゲティスバーグの演説が行われた。「( )の、( )による、( )のための政治」である。( )に共通する語を入れよ。
- 1840年にイギリスと清の間におこった戦争は何か。
- 6の戦争の結果、何という条約が結ばれたか。
- 7の条約で、清は多額の賠償金と、どこをイギリスにゆずることになったか。
- 6の戦争後、洪秀全が農民を率いてつくった国を何というか。
- 1857年、イギリスに対してインド国民が起こした大規模な反乱を何というか。
【解答】欧米諸国のアジア進出
- 鉄血政策
- 南北戦争
- リンカーン
- 奴隷制
- 人民
- アヘン戦争
- 南京条約
- 香港
- 太平天国
- インドの大反乱
【練習問題】欧米諸国のアジア進出記述問題
次の各問いに、簡潔に答えよ。
(1)ドイツ帝国の宰相ビスマルクが推進した鉄血政策とはどのような政策か。
(2)アメリカで南北戦争が起こった理由を、「奴隷制」「貿易」という語を用いて簡潔に答えよ。
(3)太平天国の乱の指導者である洪秀全は、どのような国をつくろうとしたのか。「土地」「貧富の差」という語を使って、簡潔に答えよ。
(4)インドの大反乱は、セポイの反乱がきっかけとなった。セポイとはどのような人々か。
(5)イギリスはインドの大反乱を鎮めたあと、インドをどのように支配したか。「ムガル帝国」「イギリス政府」「東インド会社」の語を使って、簡潔に説明せよ。
【解答】欧米諸国のアジア進出記述問題
(1)軍事力を強める政策。
(2)北部と南部で、奴隷制や貿易に対する政策の主張に違いがあったから。
(3)土地が平等に分けられた、貧富の差異がない国。
(4)東インド会社に雇われていたインド兵。
(5)ムガル帝国を滅ぼし、東インド会社を解散して、イギリス政府がインドを直接支配した。
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