中学歴史の明治時代のポイント「入試に出る最も大事な7つの出来事」についてまとめています。明治時代については、なんらかの形で必ず出題される時代で、大事な時代となります。しっかり流れをつかんで、得意な時代にしていきましょう。
明治時代のポイント
明治時代で押さえておかないといけない出来事とは、「①倒幕運動」「②明治維新」「③立憲政治」「④日清戦争」「⑤日露戦争」「⑥不平等条約改正」「⑦産業革命」です。それぞれを詳しくみていきましょう。
明治時代は、1867年に明治天皇は王政復古(むかしの天皇の政治にかえる)の大号令を出して、天皇を中心とする新政府の成立を示したところから始まります。
倒幕から明治新政府の発足の流れ
幕末、尊王攘夷運動が高まる中、1867年に第15代将軍徳川慶喜によって、政権を朝廷に返す大政奉還がなされました。その後、戊辰戦争を経て明治新政府が発足します。まずは、ここまでの歴史の流れをサクッと確認しましょう。
年代 | 出来事 | 内容 |
1858 | 尊王攘夷運動の高まり | 日米修好通商条約を結んだ幕府への批判が高まる。 |
1863 | 薩英戦争 | 生麦事件の補償を求めて、イギリスと薩摩藩が戦争を行い、薩摩は攘夷の不可能を感じる。 |
1864 | 四国艦隊下関砲撃事件 | 長州藩の列国軍艦への砲撃への4か国艦隊の報復戦争で、長州藩は攘夷の不可能を感じる。 |
1866 | 薩長同盟 | 坂本龍馬の仲立ちで、薩摩・長州両藩が同盟を結ぶ。 |
1867 | 大政奉還 | 15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上 |
1868 | 王政復古の大号令 | 天皇の政治に戻ることや幕府の廃止が宣言される。 |
1868 | 戊辰戦争 | 新政府軍と旧幕府軍の戦い。鳥羽・伏見の戦い(京都)に始まり、1869年五稜郭の戦い(函館)で終結。 |
1868 | 五箇条の御誓文 | 明治新政府の政治の基本方針が出される。翌日には庶民の守るべき事柄を記した五榜の掲示が出される。 |
1869 | 版籍奉還 | 藩主に土地と人民の支配権を返上させる。 |
1871 | 廃藩置県 | 藩を廃止して全国に府と県を置き、中央から府知事・県令(県知事)を派遣して地方政治を行う。 |
1871 | 解放令 | えた・ひにんとして差別されてきた人々も平民となる。新政府は江戸時代の身分制度を廃止する。 |
1872 | 学制 | 6歳以上の男女全てが小学校教育を受けることとする。 |
1873 | 地租改正 | 収入の不安定な年貢に変わって、土地の所有者に地券を渡し、地価の3%を現金で納めさせる。 |
1873 | 徴兵令 | 満20歳以上の男子に徴兵の義務を負わせる。 |
まずは、明治維新の流れを年表で表してみました。特に覚えたほうがいい年号は、
- 1867年…大政奉還
- 1868年…王政復古の大号令・戊辰戦争・五箇条の御誓文
- 1871年…廃藩置県
- 1872年…学制
- 1873年…地租改正
これらの語呂は次の通りです。
- 大政奉還「徳川むな(67)しい大政奉還!」
- 五箇条の御誓文「明治維新で威張ろうや(1868)!」
- 廃藩置県「もう藩とは言わない(1871)で!」
- 学制「いや何(1872)より教育だ!」
- 地租改正「嫌な3%(1873)地租改正!」
江戸幕府の滅亡から明治新政府の発足
まずは、下の順番で江戸幕府の滅亡から明治新政府の発足までの流れを押さえましょう。
- 尊王攘夷運動の高まり
- 生麦事件(薩摩藩)・下関事件(長州藩)
- 薩英戦争(薩摩藩)・四国艦隊下関砲撃事件(長州藩)
- 薩長同盟
- 大政奉還
- 王政復古の大号令
- 戊辰戦争
- 五箇条の御誓文
幕末になると、日本に列強の艦隊が接近するようになります。そして、倒幕につながる事件が起こります。それが日米和親条約と日米修好通商条約です。江戸幕府の大老である井伊直弼が日米和親条約(不平等条約)を結んだことに異議を唱えた吉田松陰らが安政の大獄で処刑されます。井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されますが、これで一気に倒幕と外国人を追い払おうとする尊王攘夷運動が盛んになります。
1862年、薩摩藩は生麦村(現:神奈川県横浜市付近)を大名行列中に、乱入した騎馬のイギリス人たちを藩士たちが殺傷する生麦事件を起こします。これに対してイギリスは補償を求めて、薩摩藩と薩英戦争が行われます。この戦争で薩摩は攘夷の不可能を感じました。
1863年には、長州藩が関門海峡を通過する外国船への砲撃を実施します。これに対して翌年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊が報復戦争を行い、長州藩は攘夷の不可能を感じます。
攘夷の不可能を感じた薩摩と長州は、1866年に坂本龍馬の仲立ちで薩長同盟を結び、攘夷を続ける江戸幕府を倒す方向に向かいます。そんな中、1867年に15代将軍の徳川慶喜は、政権を朝廷に返上する大政奉還を行い、これで鎌倉時代から約700年続いた武士の時代が終焉を迎えます。
翌年の1868年には、天皇の政治に戻ることや幕府の廃止が宣言される。これを王政復古の大号令といいます。同年、旧幕府軍と新政府軍の戦いである戊辰戦争が、京都の鳥羽・伏見の戦いで始まり、翌年の函館五稜郭の戦いで終止符が打たれ、明治新政府軍の勝利が確定します。
戊辰戦争中の1868年には、五箇条の御誓文が出され、明治新政府の政治の基本方針が示されます。同時に、庶民の守るべき事柄を記した五榜の掲示も出されています。
明治新政府が行った改革
欧米の先進国に対抗するために、経済を発展させて国力を向上させ、強力な軍隊を整備することを目指す政策を富国強兵といいます。明治新政府が行った改革で覚えるべき内容は次の通りです。
- 版籍奉還→廃藩置県
- 解放令→四民平等
- 学制→国民すべてが小学校教育を受ける
- 地租改正→年貢に変わる税制度確立
- 徴兵令→満20歳以上の男子に徴兵の義務
まずは、徳川幕府によって幕藩体制が敷かれていましたが、これを1869年の版籍奉還により藩主に土地と人民の支配権を朝廷に返上させます。これにより藩という地方政治システムはなくなります。1871年には藩を完全に廃止して全国に府と県を置き、中央から府知事・県令(県知事)を派遣して地方政治を行ようになります。
1871年には解放令が出され、江戸時代にえた・ひにんとして差別されてきた人々も平民に戻ることができるようになります。江戸時代に士農工商と身分が分けられていましたが、武士も農民も全てが平等に扱われるようになります。しかし、天皇家一族は皇族・公家や大名たちは華族・武士は士族として扱われ、それに伴う差別意識は長く残ることになります。
明治維新
明治維新は、新政府の改革とそれに伴う社会の動き。富国強兵は、欧米に対抗するため、経済を発展させて国力をつけ軍隊を強化。学生、兵制、税制の三つの改革。近代化の基礎となる。
事柄 | 学制 | 徴兵令 | 地租改正 |
---|---|---|---|
年号 | 1872年 | 1873年 | 1873年 |
内容 | 6歳以上の男女に小学校の義務教育 | 満20歳以上の男子に兵役の義務 | 地券を発行し、地価の3%を地租として現金 |
江戸時代には、武士は藩校、庶民は寺子屋で教育を受けていましたが、1872年に学制が公布され、6歳以上の男女はすべて小学校教育を受けることとなります。働き手が取られる、授業料が高いなどの反発も生じました。
不安定な年貢の徴収にも改革が行われます。それまで年貢として米を納めさせていましたが、年ごとに年貢の徴収高にばらつきがあるため、江戸幕府の財政は安定しませんでした。これを1873年の地租改正により、土地の所有者に地券を交付し、地価の3%を現金で納付させるようにしました。地租改正は、政府の財政を安定させたが、急激な改革に反対する人々の一揆が各地で起こった。
また同年の1873年には徴兵令が出され、満20歳以上の男子に徴兵の義務が課されます。これにより、日本は近代的な軍隊の構築を急ぐことになります。
地租改正
土地に対する税率は全国統一の近代的な税となり、政府の歳入(年間の収入)の大半を占め財政を安定させた。
- 土地の所有者と価格地価を定め地券を発行する。
- 課税の基準を収穫高から地価に変更する。
- 税率は地価の3%で土地の所有者が現金を納める。
- 税の負担は変わらず、地租改正反対一揆が起き、地価の3%から2.5%へ。
新政府の方針<五箇条の御誓文>
一 広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ゲ 人心ヲシテウマサラシメンコトヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇貴ヲ振起スベシ
<和訳>
- 広く会議を開いて、すべての政治は、世論に従い決定するべき
- 治める者と人民が心をひとつにして 盛んに国家統治の政策を行うべき
- 公家と武家が一体となり、庶民にいたるまで、志をとげ、人々の心をあきさせないことが必要
- 古い悪習を破り 国際法に基づくべき
- 知識を世界に求め、おおいに天皇政治の基礎を盛んにすべき
当時の華族・士族・平民の割合
- 平民…93.5%(3100万人)
- 士族…5.6%(183万人)
- 華族…0.3万人
公家と大名は、華族。武士などは、士族。百姓は、町人・平民と呼ばれるようになった。
立憲政治
伊藤博文らはヨーロッパでシュタインやグティストからドイツ派の憲法理論を学んで帰国し、憲法制定の準備を進めた。大日本帝国憲法の起草作業は、法律顧問のロエスレルの助言も得て進められた。
- 藩閥政治…倒幕に活躍した公家や薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の出身者たちが政府の実権を握った。
↓ - 自由民権運動
↓ - 内閣制度の成立
↓ - 大日本帝国憲法の制定
自由民権運動
政府への不満から士族の反乱や自由民権運動が起こった。
- 西南戦争…1877年西郷隆盛を中心とした鹿児島の士族らがおこした反乱。徴兵制による政府軍に鎮圧された。
- 自由民権運動…議会政治の実現を目指す運動。
- 民選議員設立の建白書…1874年に板垣退助らが政府に提出した国会の開設を求める意見書。
- 国会期成同盟…1880年民権派の代表が大阪で結成。
- 国会開設の整備…政府が10年後に国会を開くこと約束。
自由党と立憲改進党
党 | 自由党 | 立憲改進党 |
---|---|---|
成立年 | 1881年 | 1882年 |
影響国 | フランス | イギリス |
成立者 | 板垣退助 | 大隈重信 |
板垣退助
1874年地元の土佐に政治結社、立志社をつくり、当時薩摩藩や長州藩など一部の藩の人間のみが政治を行っていることを批判。「国民が選んだ議員に政治を任せるべきだ」と主張します(民選議員設立の建白書)
- 秩父事件…1884年の、松方財政下では困民党に結集した農民たちが、秩父事件を起こした。秩父事件の前後には、加波山事件、飯田事件など、自由党員を主力とする一連の激化事件がおこっている。秩父事件のような自由民権運動の急進化と政府の懐柔政策によって、自由党内には分裂がおこり、自由党は解散を決議した。
- 中江兆民…中江兆民が参加した自由党は、政府の弾圧と党内の混乱によって解党した。保安条例によって、ほかの民権家らとともに東京から追放された
大隈重信
自由民権運動の有力政党として、イギリス流の穏健な立憲政治による政治改革・国権伸張・地方自治の基盤確立などを目標に活動しました。しかし、自由党との対立抗争や自由民権運動の激化もあり、1884年には、大隈が脱党して弱体化していきました。そして、1896年に、進歩党が結成されるとともに解党されました。
日清戦争
1894年、甲午農民戦争が起こると、朝鮮をめぐって対立していた日本と清国は朝鮮に出兵し、日清戦争が始まった。日清戦争がはじまると、議会は政府に対し全面的に協調するようになった。日清戦争の前には、朝鮮で、壬午軍乱(壬午事変)が起こった。明治17年(1884年)には、朝鮮の独立党が日本公使館の援助をえてクーデタを起こしたが、清国軍の攻撃で失敗した。伊藤博文と李鴻章によって天津条約は結ばれ、日清両軍の朝鮮からの撤兵などが定められた。アジア近隣諸国から、近代化が進む日本への留学生が増加する中、朝鮮からは、1881年6月から1884年の甲申政変までに100名近い留学生が派遣された。これは開化派の金玉均らの政策によるものであった。
- 甲午農民戦争
↓ - 日清戦争
↓ - 下関条約
↓ - 三国干渉
●下関条約
- 清は、朝鮮の独立を認める。
- 清は、日本に、遼東半島・台湾・澎湖諸島をゆずる。日本は、台湾総督府を置き、植民地化をすすめる。
- 清は、日本に、賠償金2億両(現在価値3億円以上、当時の国家予算の4倍以上に相当)を支払う。日本は、これを軍備膨張費に使う。
日露戦争

日露戦争をめぐる列強諸国の関係
日露戦争時の軍事費は、国家予算の8割以上を占め、外債はアメリカやイギリスで募集された。日露戦争の戦費は外国債以外に内債や増税によってまかなわれ、それにより国民の負担は重くなった。
- 義和団事件
↓ - 日英同盟
↓ - 日露戦争
↓ - ポーツマス条約
↓ - 韓国併合
●ポーツマス条約
- ロシアは、韓国における日本の優越権を認める。
- ロシアは、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道の利権をゆずる。
- ロシアは、北緯50度以南の樺太を割譲。
- ロシアは、沿海州、カムチャツカ半島周辺の漁業権を認める。
●日比谷焼き討ち事件
戦争の犠牲の大きさに対し賠償金が得られないことから国民がおこした暴動。日本は列強としての地位を固め、大陸の進出を狙う。
戦争 | 日清戦争 | 日露戦争 |
---|---|---|
年号 | 1894 | 1904 |
きっかけ | 甲午農民戦争 | 義和団事件 |
条約 | 下関条約 | ポーツマス条約 |
戦後 | 三国干渉 | 日比谷焼き討ち事件 |
不平等条約の改正
条約 | 関税自主権 | 領事裁判権 |
---|---|---|
年号 | 1911年 | 1894年 |
人物 | 小村寿太郎 | 陸奥宗光 |
備考 | 1894年に一部回復。1911年に完全に回復する | イギリスと結び実現 |
関税自主権
関税自主権(かんぜいじしゅけん)とは、国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利。
領事裁判権
外国人が、現在住んでいる国の裁判権に服さず、本国の法にもとづいて本国領事の裁判を受ける権利。
条約改正までの経緯とその後
1886年のノルマントン号事件をきっかけに、日米修好通商条約の不平等な内容改正し、欧米諸国と対等な地位を得ようとした。日本は、憲法の制定と条約改正により欧米諸国と対等の地位となり帝国主義へ傾いていきます。
その他の不平等条約
ベルサイユ条約…第1次世界大戦を終結するため,1919年6月 28日パリ郊外のベルサイユで,連合国側とドイツとの間で調印された講和条約。アメリカそのほか数ヵ国はこの条約に参加しなかった。内容には国際連盟案など戦後の世界平和を目的とした条項も存在。一方で敗戦国ドイツに,フランスやポーランドなどへの領土割譲,ライン川左岸の非武装化,オーストリアとの合併禁止,海外植民地の放棄,ドイツの戦争責任を根拠とする巨額の賠償などを課した不平等条約ともいえる。
産業革命
進む世界の一体化で、資本主義が発展し、イギリス、ドイツ、アメリカ、ロシア、フランスなど経済力などを背景に世界に進出。また、蒸気船や鉄道の発達で人や商品の動き、情報の伝達が活発化なる。
- 日清戦争前後は軽工業
↓ - 日露戦争前後は重工業
↓ - 公害の発生・足尾鉱毒事件
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