中学歴史の奈良時代についてポイントをまとめています。奈良県奈良市にある平城京に都が移されてから、京都府の平安京に都が移されるまでの時代を奈良時代といいます。この時代は、最も仏教が力を持った時代です。
➊聖武天皇は、仏教の力によって国家を守ろうと考え、国ごとに国分寺、国分尼寺を建て、奈良に総国分寺として東大寺を建てた。
➋奈良時代には人口が増加し、口分田が不足したことから、朝廷は開墾をすすめた。
➌墾田永年私財法は、開墾した土地の永久私有を認めたことから、有力な貴族や寺社が重い税負担から逃亡した農民などを使って開墾を進め、私有地を広げた。のちにこの私有地を荘園と呼ぶようになる。
奈良時代いつから?
奈良時代は、710年に元明天皇が、唐の長安(現在の西安)にならって奈良に都を造営し、藤原京から遷都しました。この都を平城京とよび、奈良に都がおこれた70年余りを奈良時代といいます。
- 平城京…唐の都長安にならって作られた都。条坊制(碁盤目の区画)で区画され、中央に朱雀大路が通り、平城宮は北端に位置します。16kmごとに駅家が設けられました(駅制)がこれは公用のみが使用可能でした。
- 和同開珎(わどうかいちん)…日本で流通した銅銭。日本初の銅銭は富本銭。
聖武天皇の政治
聖武天皇が即位した720~740年は、凶作が続き、疫病が流行するなど、社会不安が広がっていました。そこで、聖武天皇は、仏教の鎮護国家の思想で国の平安を保とうと
- 国ごとに国分寺と国分尼寺
- 都に東大寺
を建てました。東大寺には、大きな大仏がつられます。また、僧の行基は布教のかたわら、諸国をまわって橋や用水路などをつくり、政府の要請で大仏の造立にも積極的に協力しました。
農民のくらし
鉄製農具の広がりで、稲の収穫量はしだいに増加していきます。しかし農民には重い税が課されます。租・調・庸・雑ようなどの税のほか、兵役、防人も課せられました。このため、農民らの中には重い税や苦しい労役からのがれるために、戸籍の性別や年齢をいつわったり、口分田を捨てて逃亡して貴族や寺社の私有民となって、勝手に僧になって、税を免れる者をいました。
奈良時代の税
特に成年男子の課せられる税や労役は非常に重かったようです。
- 租(そ)…1反あたり2束2把の稲を納める。収穫の約3%にあたる。
- 調(ちょう)…17歳以上の男子に課され、絹・糸・綿などの地方の特産物を納める。
- 庸(よう)…21歳以上の男子に課され、労役の代わりに布を納める。
- 雑徭(ぞうよう)…17歳以上の男子に課され、国司のもとでの年間60日以下の労役(のち桓武天皇の時、半減されて30日以内となる)
- 防人(さきもり)…兵役。北九州の防衛に当たる者。主に東国の農民が防人となった。
- 出挙(すいこ)…稲の強制的貸し付け。年5割と非常に利息が高かった。
- 義倉(ぎそう)…元来は飢饉対策。粟を蓄えた。
公地公民制から荘園へ
農民の逃亡や自然災害などで荒れ地が増え、人口の増加もあり、口分田が不足なるようになりました。そこで、
- 723年…三世一身の法を出して、新しくかんがい施設をつくって土地を開墾した者には3代に限って私有を許すことにしました。
- 743年…墾田永年私財法三代後にはふたたび荒れ地になるので、新しく開墾した土地の永久私有を認めました。
墾田永年私財法が出され、有力な貴族や寺社などは、付近の農民や浮浪人を使って開墾を進めて、私有地を増やしていきました。これが原因で、公地公民制はくずれていきました。こうした私有地は、のちに荘園とよばれるようになりました。
遣唐使
朝鮮半島の情報を収集するとともに、唐の進んだ政治制度や文化などを学ぶために、遣唐使を派遣。
唐の高僧である鑑真(がんじん)は、遣唐使の招きに応じて日本に渡ろうとしましたが、5回も失敗して盲目となりました。6度目の挑戦で、来日して仏教の戒律を伝えて、唐招提寺を開きました。
天平文化
聖武天皇を中心とする奈良時代の文化で、唐の影響を受けた国際色豊かな文化を天平文化といいいます。ヨーロッパや西アジアの影響も強く表れた文化です。
- 正倉院…聖武天皇の愛用品などがおさめられている東大寺の建物。
- 万葉集…奈良時代に、さまざまな身分の人の歌を集めてつくられた日本最古の和歌集
- 古事記…太安万侶がまとめた、日本最古の歴史書。
- 日本書紀…舎人親王らが編纂した、日本最古の歴史書。
- 風土記…国ごとに地名の由来・産物・伝承などを記した。
万葉集には、山上憶良や大伴家持、柿本人麻呂などの歌がおさめられたほか、防人の歌もおさめられています。
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